2012年 11月 13日
手賀川・手賀沼~我孫子文士の遺跡巡り
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11月13日(火)
歩く会のメンバー11名で、千葉県の北部にある手賀沼と我孫子を散策してきました。
以前歩いた事のある手賀沼ですが、今回は手賀川から手賀沼、そして我孫子の町の散策です。
JR成田線布佐駅に集合し、手賀川を目指して歩き始めました。
のどかな田園風景に癒されながら、曇り空の中に青空も見えるウォーキング日和です。
手賀沼フィッシングセンターで昼食後、今度は沼沿いを歩きました。
手賀沼も近江八景、金沢八景と並んで、八景が詠われた事があったそうです。
それだけ美しい景観だったこの土は、やがて文士達の別荘地になった事も頷けます。
沼のほとりにて
我孫子再発見!
我孫子は明治29年に開通した常磐線で、東京から1時間余り、
美しい手賀沼が我孫子の別荘地として注目されるようになり、多くの文人などが住むようになりました。
その文人達の邸跡を巡りました。
村河別荘
今からおよそ100年前、我孫子にはまだ電気も通るか通らないかのころです。我孫子の宝である手賀沼を愛した一人の帝大教授がいました。その名は、村川堅固。彼がこの水辺の環境を気に入って、大正6年に沼を一望できる丘の中腹に別荘を設けました。その後、昭和になって息子の堅太郎に引き継がれた別荘は、平成の時代を迎えたとき取り壊される運命にありました。しかし、この別荘の貴重な空間を大切に思ったご遺族、市民の方々が立ち上がり、行政が応え、そして別荘は守られたのです(我孫子市HPより)
志賀直哉邸跡
柳宗悦の勧めで1915年から1923年まで住んでいた、当時の書斎は復元され、住居の跡も間取り図を基に想定復元された敷石が並べられています。
崖からの湧水を貯めて飲用していたものと思われる、又湧水は手賀沼の水源でもあった。
白樺派文学館
白樺文学館は、佐野力氏によって、この白樺派文人たちの活動を広く次代に伝えるため、建設されました。
白樺派の中心人物の一人であった柳宗悦が、新妻の兼子と手賀沼のほとりの叔父の嘉納治五郎の別荘地前にあった母親と姉の隠居所跡に移住したのは大正3年の秋でした。続いて翌大正4年に柳の強い誘いで志賀直哉・康子夫妻、大正5年には志賀の生涯の友である武者小路実篤・房子夫妻など、相次いで白樺派の仲間が住むようになります。白樺派文人たちは、この手賀沼の美しい自然からエネルギーを享けて、我孫子の地で創作活動を大きく発展させました。
志賀直哉の直筆原稿や、暗夜行路が映画化された時のポスターなども展示されていて楽しい文学館です。
杉村楚人冠邸園
朝日新聞社記者・随筆家、我孫子では俳句結社湖畔吟社(こはんぎんしゃ)を主宰し、1912年に別荘を建て、関東大震災を機に1924年から1945年没まで在住、邸園内には楚人冠が植えた椿や山茶花が、大木になって花を咲かせていました。
ジャーナリストだった楚人冠は石川啄木、渋川玄耳、土岐善麿等とも交流があり、啄木が貧しく、病弱な生活をしていたので、皆でお金を集めて渡したら、そのお金で本を買ってしまったという、正直な礼状の手紙等も展示されている。
他にも白樺派の創設者の武者小路実篤邸跡や三樹荘跡(柳宗悦邸宅跡)、旧我孫子宿名主邸跡などもあるというが、非公開で見学できないそうです・・・見学時間もなくて・・・
初めて訪れた我孫子の街、景観の素晴らしい沼を中心に、文士達の交流の場でもあったのですね。
ちょっと見直し、再発見をした我孫子の街でした。
歩く会のメンバー11名で、千葉県の北部にある手賀沼と我孫子を散策してきました。
以前歩いた事のある手賀沼ですが、今回は手賀川から手賀沼、そして我孫子の町の散策です。
JR成田線布佐駅に集合し、手賀川を目指して歩き始めました。
のどかな田園風景に癒されながら、曇り空の中に青空も見えるウォーキング日和です。
手賀沼フィッシングセンターで昼食後、今度は沼沿いを歩きました。
手賀沼も近江八景、金沢八景と並んで、八景が詠われた事があったそうです。
それだけ美しい景観だったこの土は、やがて文士達の別荘地になった事も頷けます。
沼のほとりにて
我孫子再発見!
我孫子は明治29年に開通した常磐線で、東京から1時間余り、
美しい手賀沼が我孫子の別荘地として注目されるようになり、多くの文人などが住むようになりました。
その文人達の邸跡を巡りました。
村河別荘
今からおよそ100年前、我孫子にはまだ電気も通るか通らないかのころです。我孫子の宝である手賀沼を愛した一人の帝大教授がいました。その名は、村川堅固。彼がこの水辺の環境を気に入って、大正6年に沼を一望できる丘の中腹に別荘を設けました。その後、昭和になって息子の堅太郎に引き継がれた別荘は、平成の時代を迎えたとき取り壊される運命にありました。しかし、この別荘の貴重な空間を大切に思ったご遺族、市民の方々が立ち上がり、行政が応え、そして別荘は守られたのです(我孫子市HPより)
志賀直哉邸跡
柳宗悦の勧めで1915年から1923年まで住んでいた、当時の書斎は復元され、住居の跡も間取り図を基に想定復元された敷石が並べられています。
崖からの湧水を貯めて飲用していたものと思われる、又湧水は手賀沼の水源でもあった。
白樺派文学館
白樺文学館は、佐野力氏によって、この白樺派文人たちの活動を広く次代に伝えるため、建設されました。
白樺派の中心人物の一人であった柳宗悦が、新妻の兼子と手賀沼のほとりの叔父の嘉納治五郎の別荘地前にあった母親と姉の隠居所跡に移住したのは大正3年の秋でした。続いて翌大正4年に柳の強い誘いで志賀直哉・康子夫妻、大正5年には志賀の生涯の友である武者小路実篤・房子夫妻など、相次いで白樺派の仲間が住むようになります。白樺派文人たちは、この手賀沼の美しい自然からエネルギーを享けて、我孫子の地で創作活動を大きく発展させました。
志賀直哉の直筆原稿や、暗夜行路が映画化された時のポスターなども展示されていて楽しい文学館です。
杉村楚人冠邸園
朝日新聞社記者・随筆家、我孫子では俳句結社湖畔吟社(こはんぎんしゃ)を主宰し、1912年に別荘を建て、関東大震災を機に1924年から1945年没まで在住、邸園内には楚人冠が植えた椿や山茶花が、大木になって花を咲かせていました。
ジャーナリストだった楚人冠は石川啄木、渋川玄耳、土岐善麿等とも交流があり、啄木が貧しく、病弱な生活をしていたので、皆でお金を集めて渡したら、そのお金で本を買ってしまったという、正直な礼状の手紙等も展示されている。
他にも白樺派の創設者の武者小路実篤邸跡や三樹荘跡(柳宗悦邸宅跡)、旧我孫子宿名主邸跡などもあるというが、非公開で見学できないそうです・・・見学時間もなくて・・・
初めて訪れた我孫子の街、景観の素晴らしい沼を中心に、文士達の交流の場でもあったのですね。
ちょっと見直し、再発見をした我孫子の街でした。
by semineo
| 2012-11-13 23:59
| ウォーキング