2010年 01月 25日
姫路城について
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姫路城
姫路城は徳川の城として築かれた。
(それ以前に羽柴秀吉は小さな三層の城を造ったが今は城の跡形は何もない)
関ヶ原の戦いは勝利したものの、西から攻め、大阪の豊臣恩顧の西国大名を恐れての守り城とて、
徳川家康の娘婿の池田輝政を姫路に配置し姫路城を築かせ、守りに徹した城を造った。
大天守、三つの小天守からなり、天守はすべて渡櫓で繋がり(連立式天守閣という)、
城を大きく見せるようになっている。
今から400年前の1609年に完成した。
その後、本多忠政が姫路城主になり、その嫡子忠刻は大阪夏の陣の後助け出さた千姫と結婚する。
徳川家から千姫の化粧料として年10万石(現在の45億円の相当)が支払われ、西の丸等が建築された・・・今は庭園になっていて、百間廊下と化粧櫓が残されている。
百間廊下(長局)には千姫に仕える40人の奥女中の部屋があり、身分によって部屋の仕様も違っていた。
落書きがひどく4月からは部屋の中に入れないという
城壁には丸・三角・四角の穴があり射撃用の窓で狭間という。
石垣
羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政の時代の石垣がある
石の足らなかった秀吉は何でも利用したという
石灯籠に墓石、姥ヶ石は石不足の事を聞いた貧しい老婆が石臼を差出した。
秀吉はたいそう喜びそれが評判になり石が集まったという。
天守の内部
大天守を支える「東の大柱」と「西の大柱」は地下から6階床下まで貫いている。
天守からの景色
菱の門
名前の由来は菱の花が付いている
華やかな飾り、真中に武者窓、両端に華灯窓で格式の高さを表している。
門は天守に近くなるほど狭くなっている。
家紋
歴代城主の家紋、姫路城を築いた池田家の家紋は「揚羽蝶」
最後に見たのは「お菊の井戸」
これは抜け道になっているのではと言われ、人を近づかせない為に幽霊話になったのかも?と言う事でした。
世界遺産に登録されているだけあって、攻められた時の仕掛けなどがたくさん施され、
美しさを維持した素晴らしいお城でした。
観光客と小学生らしい団体の多い日でした。
7歳で豊臣秀頼と政略結婚した千姫は
大阪落城から助けられ、20歳で本多忠刻と結婚する。
その間 幸千代 と勝姫 を出産するが 幸千代は幼くして亡くなる。
千姫30歳の時、夫の忠刻も急死。
嫡子がいない為江戸にもどり出家し天樹院(てんじゅいん)と称した。
姫路城に住んだのはわずか10年間
豊臣秀頼と夫の本多忠刻、息子の幸千代の菩提を弔って70歳まで生きる。
東京の伝通院にお墓がある。
姫路城は徳川の城として築かれた。
(それ以前に羽柴秀吉は小さな三層の城を造ったが今は城の跡形は何もない)
関ヶ原の戦いは勝利したものの、西から攻め、大阪の豊臣恩顧の西国大名を恐れての守り城とて、
徳川家康の娘婿の池田輝政を姫路に配置し姫路城を築かせ、守りに徹した城を造った。
大天守、三つの小天守からなり、天守はすべて渡櫓で繋がり(連立式天守閣という)、
城を大きく見せるようになっている。
今から400年前の1609年に完成した。
その後、本多忠政が姫路城主になり、その嫡子忠刻は大阪夏の陣の後助け出さた千姫と結婚する。
徳川家から千姫の化粧料として年10万石(現在の45億円の相当)が支払われ、西の丸等が建築された・・・今は庭園になっていて、百間廊下と化粧櫓が残されている。
百間廊下(長局)には千姫に仕える40人の奥女中の部屋があり、身分によって部屋の仕様も違っていた。
落書きがひどく4月からは部屋の中に入れないという
城壁には丸・三角・四角の穴があり射撃用の窓で狭間という。
石垣
羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政の時代の石垣がある
石の足らなかった秀吉は何でも利用したという
石灯籠に墓石、姥ヶ石は石不足の事を聞いた貧しい老婆が石臼を差出した。
秀吉はたいそう喜びそれが評判になり石が集まったという。
天守の内部
大天守を支える「東の大柱」と「西の大柱」は地下から6階床下まで貫いている。
天守からの景色
菱の門
名前の由来は菱の花が付いている
華やかな飾り、真中に武者窓、両端に華灯窓で格式の高さを表している。
門は天守に近くなるほど狭くなっている。
家紋
歴代城主の家紋、姫路城を築いた池田家の家紋は「揚羽蝶」
最後に見たのは「お菊の井戸」
これは抜け道になっているのではと言われ、人を近づかせない為に幽霊話になったのかも?と言う事でした。
世界遺産に登録されているだけあって、攻められた時の仕掛けなどがたくさん施され、
美しさを維持した素晴らしいお城でした。
観光客と小学生らしい団体の多い日でした。
7歳で豊臣秀頼と政略結婚した千姫は
大阪落城から助けられ、20歳で本多忠刻と結婚する。
その間 幸千代 と勝姫 を出産するが 幸千代は幼くして亡くなる。
千姫30歳の時、夫の忠刻も急死。
嫡子がいない為江戸にもどり出家し天樹院(てんじゅいん)と称した。
姫路城に住んだのはわずか10年間
豊臣秀頼と夫の本多忠刻、息子の幸千代の菩提を弔って70歳まで生きる。
東京の伝通院にお墓がある。
by semineo
| 2010-01-25 10:05
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